おはようございます。
今、「失敗の科学」という本を読んでいるのですが、その中で「人は自分の間違いを認めない」という性質に言及していました。
興味深かったので今日は「なぜ、人は間違いを認められないのか」について書いてみたいと思います。
なぜ、間違いを認められないのか
人間誰しも間違える生き物です。もちろん私も間違います。
しかし、中には持論を曲げない人っていると思います。
自分の判断や考えに絶対の自信をもっており、誰が何を言っても耳を傾けない人です。
「失敗の科学」ではそれについても触れられていました。
- 物的証拠があるのに被告を有罪と信じて疑わない検事
- 予言を外したインチキ霊能者を信じ続ける信者
など、本を読んでいると滑稽なのですが、これには「認知的不協和」という心理的なバイアスが働いているそうです。
認知的不況とは簡単にいうと「つまらない作業や苦労した経験を選択した自分を納得させる理由付け」みたいな感じでしょうか。
紹介された事例の中で面白い実験がありました。
学生に対して「官能小説を皆の前で音読させる」グループと「辞書の卑猥な単語を音読させる」グループに分けます。(この時点ですげー実験だなと思いました。)
その後、学生たちに対して「どうしようもなくつまらない動物の生殖行為に関するビデオ」を見せて感想を問うと、「官能小説を音読させられたグループ」の方が「興味深い」「意義があった」という感想が多かったようです。
「官能小説を皆の前で音読」という罰ゲームみたいな経験をさせられた後に、つまらないビデオを見せられると、恥ずかしい経験をした自分を納得させるために「ビデオが意義あるもの」であると、自分を納得させてしまう傾向があるそうです。
確かに経験に対して「苦労したのに何も得られなかった」「愚かな選択をしてしまった自分を認めたくない」というのはその通りだなと思います。
自分が認知的不協和に陥っていないか
実際の仕事上で遭遇する「不毛な施策を進める経営者」や「絶対に意見を曲げない人」を見ると認知的不協和が起きていることがわかります。
しかし、他人事としてみるのではなく自分がそうした状態に陥った状態になっていないか定期的に確認する必要性を感じました。
こうした認知的不協和は誰にでもおきます。
知っていたとしてもこうした思い込み(バイアス)に陥ってしまうそうです。
専門家なども判断を誤り、更にはそれすら認めない傾向があるとのこと。
自分が判断や意見する際には「客観的になれているか、証拠があるか」「他人の意見を採用したらどうなるか」といった観点で再チェックするのが有効でしょう。
まとめ
今日は認知的不協和について書いてみました。
本で事例として読んでいると、愚かな行為に見えるのですが自分でも起こりうる事、あるいは既に陥っているかも、という視点を持ち続けるのはとても重要なことだとおもいました。